奈良育英中学校・高等学校

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バスケットボール部男子ウインターカップ応援撮影&東日本大震災被災地視察【その2】

  • 2017/01/07 高校

2016年12月24日土曜日~12月26日月曜日(2泊3日) 昨年度より生徒会・生徒会執行委員主催により、部活動応援企画を実施しています。今回は、バスケットボール部男子が2年連続ウインターカップ(全国大会)に出場することなり、応援撮影として生徒2名と参加することになりました。12月24日の一回戦より応援撮影に出かけてきました。同時に、生徒会として東日本大震災被災地を視察してきました。遅くなりましたが、その2として被災地視察の様子を報告させていただきます。    生徒会としてバスケットボール部男子の応援だけではなく、災害に対する被災地視察も兼ねており、国内で起こった5つの災害(火災・地震・津波・原子力・水害)について学ぶ事ができるプランとなりました。偶然にも北陸周りの往路を予定していたため、2日前(12/22)におこった糸魚川での大規模火災現場を北陸新幹線の車内より見ることができました。報道にもあったように、火元である中華料理屋より北側の海岸線まで真っ黒の焼け野原でした。(写真は、車内からの撮影のためわかりにくいかもしれません・・・)鍋を火にかけたままその場を離れるという1人の不注意から、こんなにも大変なことになるということを知りました。しかし、実はここにも自然現象の恐ろしさが潜んでいたんです。この日、フェーン現象で乾燥した台風並みの南からの暴風が吹いていたということです。そのため、火の手が北側(海岸方向)へと広がってしまうという結果となりました。出火の原因は、人のミスからですが、火災が大きく広がった原因は自然現象にもありました。   2日目、東日本大震災被災地視察を半日予定していましたが、予定を変更、終日利用して南相馬付近(福島県)と南三陸(宮城県)の2ヶ所へ向かうことにしました。JR常磐線を北上し、現在復旧している東京寄りの最北端、竜田駅まで乗車。そこでJR代替バスに乗り換えます。40人以上乗客がおり、ほぼ満席でした。帰還困難区域内(国道6号線)を走行するこのバスの車窓には、5年以上前の状態のままの町が広がっていました。各店舗や民家の前にバリケードが置かれ、国道6号線以外の場所には立ち入ることが出来なくなっています。もちろん、バスは帰還困難区域を通過して小高駅まで乗降不可能です。窓も開けてはいけません。しかし、一般車両も通行可能なため誰でも通ることが出来る道路なのです。人が住んでいないため、駐車場や庭には雑草が生え、窓ガラスも地震で割れたまま、店の中の商品も散乱したままで、時の止まった町でした。同じ国内に私たちの知らないこんな世界があることや、ここにも5年10ヶ月前には普通に人々が生活していたと思うと、辛い気持ちになりました。(車内での撮影が禁止されていたため資料としてインターネットの帰還困難区域写真を掲載します。)           バスは、一部津波浸水区域を走行し、常磐線の仙台寄りの最南端の駅「小高駅」に到着。ここも、2016年春に開通したばかりの駅です。つい先日、5年9ヶ月ぶりに大熊町(帰還困難区域)で津波の被害にあった少女の遺骨(顎と首の骨)が海岸で発見され、DNA鑑定の結果が出たというニュースがありました。やっと父親のもとへ帰ることができたそうです。いまだ、行方不明者が大勢いて、住んでいた町にも戻れずにいます。つらい現実を知ることになりました。そして、地震や津波、原子力の恐ろしさについて考えさせられました。     そのあと、南相馬市の原ノ町駅より、先日(12/10)に開通して間のない常磐線(新開通区間:相馬~浜吉田)に乗車しました。仙台までやっと直通で行けるようになったのです。復旧までに5年9ヶ月かかりました。東北地方最大の街、仙台に到着する頃には電車内は満員で大変混雑していました。その土地の美味しい食べ物を食べる事は、旅の楽しみのひとつです。仙台といえば牛タンです!時間がなかったため牛タン弁当を購入し、車内で食事しながら東北本線を北上しました。列車を乗り継ぎJR石巻線前谷地駅で下車。南三陸町志津川までBRT(JRの線路を撤去した土地(BRT専用道路)を走る交通システム)に乗車しました。鉄道を復旧させるには時間もお金もかかるため、BRTは生まれました。鉄道が復旧するまでの間の被災地を結ぶ大切な交通機関として役に立っているそうです。   志津川では、震災の様子を写真パネルで展示してあり、見学してきました。この場所に町があり、すべて流されてしまったのだと思うと、津波の恐ろしさがよくわかりました。その後、南三陸さんさん商店街(復興商店街)で地元の美味しい海鮮をいただきました。観光客が激減してしまった被災地では、人が訪れ、そこで地元の名産品を購入したり、地元の食材を食べてもらうことが、復興の手助けになると言って下さいます。せっかくなので、夕方の開店時間17時まで待って、料理屋「志のや」でいくら海鮮丼をいただいてから東京へ戻りました。この復興商店街もこの春で閉店となるそうです。なので、もうここでは食べることが出来ないと思い、無理して足を伸ばしましたが、その価値は十分ありました。大変美味しかったです。   鉄道路線が少しずつ復旧し、新しい施設や商店が建設されてきています。そんな中、臨時のプレハブで営業してきたこの復興商店街は閉店します。この閉店は、残念であるように思うかもしれませんが、それぞれが店舗を再建し、新しい場所で営業できるようになったという証なのです。確実な復興への一歩なのです。1年半前に訪れた時と比べて、東日本大震災の津波の高さよりも高くなるように土地の嵩上げ工事を行っており、町の様子がまったく変わってしまっていました。前回訪れた時には、プレハブのコンビニが近くで営業していたり、流されてしまったJRの駅や線路の跡なども見ることができました。しかし、土地の嵩上げ工事の地区にあたるため、それらも無くなっていました。   そんな中、震災遺構として各地の被災した建物などを残そうという計画があります。この町には、鉄骨3階建ての南三陸町防災対策庁舎が存在します。町の人々に最後まで防災無線で高台に避難するように呼びかけ続けた女性職員の話『多くの命を救った命懸けのアナウンス』として有名になった建物です。避難場所であった屋上(約12m)をさらに2m超える高さまで津波は襲いました。約30人避難していた職員は津波がひいた後には約10人しか残っていなかったそうです。残念ながら、放送し続けた女性職員も犠牲となってしまいました。 災害の記録写真を屋上で撮り続けた職員もいました。この職員は、津波に飲まれ気絶しましたが、副町長が腕を掴み続けていたので、無事生還したという記事を読みました。デジタルカメラ本体は壊れてしまいましたが、データは無事で、津波が来る前の様子から、屋上が水没する瞬間までを捉えた様子が写っており、写真の一部は南三陸町のホームページに掲載されています。私もその写真を見ましたが、津波の恐怖がわかる命懸けで撮影した貴重な写真だと感じました。その南三陸町防災対策庁舎も保存のため、工事用の幕で覆われており、今回は見られなくなっていました。   被災地は、確実に前に向いて復興が進んでいることはわかりました。ただ、遅すぎるとも感じました。まだまだ、時間が必要だと思います。熊本地震や火山、水害など大変なことが次々と起こってしまい、少しずつ忘れ去られていきがちな状況の中、決して忘れてはいけない事と強く思いました。本校では、今年度も菫咲祭(文化祭)で東日本物産展を実施し続けてきました。続けている意味を理解してもらえたと思います。   さらに3日目には、2015年9月に起こった関東・東北豪雨により鬼怒川が決壊し、広範囲で浸水した常総市に向かいました。水海道駅には関東鉄道の車両基地もあり、この時大きな被害を受けました。その関東鉄道に乗車してきました。所々で線路の下の土台部分が新しくなっているのがわかります。洪水により土が流され、レールが浮いていたのでしょう。ほとんど山がなく、高大な平地が広がる関東平野を列車は進みます。関東平野の広さを実感するため終点の下館駅で真岡鉄道に乗り換え、さらに東へ進みます。山に囲まれた終点茂木駅で折り返し、下館・小山・東京経由で帰路に着きました。この広大な沖積平野は何度も大洪水を繰り返してきたからできたと考えると、関東平野の河川はどこも危険なはずです。国や各自治体はそれを防ぐための護岸工事をしてきました。しかし、これほどの大雨を想定していなかったのでしょう。異常気象と片付けられがちですが、局所的な集中豪雨やゲリラ豪雨が多くなり、時にはバックビルディング現象により同じ線状の場所で次々と雨雲が発生し、同じ場所で長時間大雨を降らすことがあります。2014年8月の広島市土砂災害がそうでした。     いつ起こるかわからないですが、必ず南海地震は起こります。私達も他人事ではありません。最悪のシナリオでは、東日本大震災の50倍の死者が出るかもしれないと言われています。地震だけではなく、様々な災害についても、いつ遭遇するかわかりません。今回の視察をきっかけに自然災害について何か考えるきっかけになれば嬉しいです。そして、地震・津波・気象などの地学の知識を正しく身に付け、正しい判断で災害が起こった時や大災害になる前に、人の命を救えるようになってほしいと願います。

生徒会顧問 廣岡圭司

  参加生徒の感想 生徒会 黒木 瞭(1年8組) 今回の生徒会活動(バスケ部応援•東北被災地視察)の感想を述べたいと思います。 まず、1日目は北陸周りで東京に向かいました。途中、糸魚川駅に停車した時、先日の火災現場が見えました。その時、「マッチ1本火事の元」という言葉の意味がはっきりわかった気がしました。 その後、東京体育館に行き、バスケットボール部男子のウインターカップ1回戦の応援をしました。残念ながら、初戦で負けてしまいましたが、強豪校相手にとても健闘していました。全国大会に出場することで、応援する自分たちもいい経験ができました。 2日目は、東北地方へ太平洋沿いに常磐線で浪江町や南相馬市を経由し北上。地方ローカル線やバス(BRT)を使って南三陸町志津川まで行きました。東京駅から特急に乗って常磐線を北上していきましたが、被災地に近づくにつれて車窓の風景は殺風景になっていき、新地という場所では、津波でほとんど流されてしまい、何も無い大地が広がっているだけになりました。特に、帰還困難地域(浪江町等)の中をJR代替バスで通過し、5年以上前と変わらない無惨な風景を見て、悲しい気持ちになりました。夕方に、復興商店街「南三陸さんさん商店街」の料理屋「志のや」で食べたいくら海鮮丼は、今までに味わったことがないくらい美味しいものでした。 ~まとめ~ この3日間で2104キロメートル移動したのですが、それを通して学んだことは、日本は広いということでした。特に、東北方面に関しては、耳で聞くだけだったので、実際に被災地へ行くとどのような被害があったのかも詳しく分かりましたし、何よりも復興に向かっているということが分かって良かったと思います。 今回の部活応援、被災地視察はとても意味があり、内容も充実していて良かったと思いました。   生徒会サポーター 中井 遥輝(1年8組) 今回の生徒会・写真部の部活動応援で僕は初めて東京を訪れました。現地でのバスケ部の応援はとても白熱するものでした。残念ながら負けてしまいましたが、全員が全力を出し切れていたように思いました。応援できてよかったです。 2日目の被災地視察では、今までテレビでしか見ていなかった被災地の土砂が積み上げられた様子や、帰還困難地域の現状を実際に見て、どこか寂しく感じました。しかし、新しい店舗への移設による復興商店街の閉店や、新しく鉄道路線が開通されるなど、現地での復興が進んできていることを実感できました。 ~まとめ~ 僕は今回の応援取材・被災地視察に行くことが出来て本当に良かったと思いました。  

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